永順寺の歴史

創 建 
1608年(慶長13年)

歴代住職 
初 代 教圓(1615年)/第2代 教順(1674年)/第3代 教従(1677年)/第4代 教應(1700年)/第5代 教明 (1762年)/ 第6代 教安(1741年)/第7代 教群(1782年)/第8代 教胤(1812年)/第9代 教了(1848年)/第10代 教綱 (1858年)/第11代 教融(1862年)/第12代 教成(1881年)/第13代 教盈(1888年)/第14代 教勝(1940年)/第15代 教二(1945年)/第16代 唯道(1991年)/第17代 教夫
※西暦年は没年

寺院沿革
 永順寺の歴史は石川の歴史と深く関係しています。石川は元々河内の石川の出です。紆余曲折を経て下野(栃木県)に移り住みました。その後、何代かを経て石川政康という人物が現れます。石川政康は関東で布教活動を行っておられた蓮如上人に出会い浄土真宗に帰依しました。その時、上人から三河(愛知県)に来て真宗門徒を守ってくれと頼まれ、文安3年(1446年)現安城市の小川町志茂に城を築き、浄土真宗の護持発展に尽くしました。

 その後、4代を経て開基の父石川康通(1554~1607)が生まれます。康通もその父石川家成(1535~1609)も、ともに徳川家康に仕えた戦国の武将でした。家成はその勲により大垣城主となり、康通もその跡目を継いでいます。

 開基の石川教圓は康通の次男ですが、正室の子ではありませんでした。その上、教圓が生まれた時、父康通はすでにこの世を去っていました。自分の死期が迫っているのを感じたのでしょう、康通はまだ見ぬわが子の行く末を案じて遺書を残しました。慶長7年(1607年)、豊臣家が滅亡する大坂冬の陣の8年前のことでした。

 教圓は慶長7年(又は8年)に生まれました。生まれるとすぐ大垣を離れ、母親の育ての親であった京都の盛阿弥のもとで養育されたようです。その後の経過は詳らかではありませんが、9歳の時、教圓は第12代宗主准如上人に帰依し慶長16年(1611年)にこの地を賜り永順寺を建立し初代住職となりました。

 江戸時代の歴史はほとんど残っていませんが、ご門徒の中に日本のそろばんの元祖とされる片岡庄兵衛とその子孫の方がおられます。初代片岡庄兵衛は江戸の始め長崎で明人(中国)からそろばんの製法を学び、日本風に改良して全国のそろばんの家元となった人物です。

 時代は飛んで平成13年には本堂・鐘楼・土蔵の屋根等を修理、本堂横台所を設置。修復を機に堂内を椅子席にし、平成28年には本堂に冷房設備を設置し皆さんに喜んで頂いています。