浄土真宗のおしえ

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私たちは、いつも何かしら苦しみをかかえて生きています。

その苦しみには、歴史や民族を越えて、人間に共通する生来の苦しみもあれば、
人間関係など社会生活に由来する個々の苦しみもあります。
仏教は、釈尊が老・病・死という生来の苦しみの解決を求めて発見した教えです。
それは、対症療法的なものではなく、人間のこころを根本から捉え直し、その結果として苦しみを超えていこうとする宗教です。
根本的であるがゆえに、生来の苦しみも社会生活由来の苦しみもその対象となるのです。

では、仏教は、苦しみの原因をどのように捉えるのでしょうか。

我執(がしゅう)と煩悩(ぼんのう)

仏教で「苦」は、原語で「ドゥッカ」といい、元々は「思い通りにならない」という意味でした。その典型が老・病・死です。「思い通りにならない」ことを己(おのれ)の思い通りにしようとするところに「煩悩」が生じ苦しみが生まれるのです。

では、なぜ、思い通りにしようとするのか。

それは、私たちが、何を差し置いても自分にこだわり続け、自己の欲や快を優先的に満たそうとする利己的排他的な自己中心性を本質としているからです。これを《我執》といい「苦」を生み出す原因とみるのが仏教なのです。

《我執(がしゅう)》

親鸞聖人の苦悩

私たちが、《我執》を本質とする存在であることを知り尽くし、《我執》に振り回されない人格を完成することはできると考えるのが仏教であり、それを実現したのがブッダ、釈尊でした。ブッダとは、「目覚めた者」という意味で、「悟りを開いた者」ともいいます。

以来、多くの仏教徒が釈尊と同じ境地を目指して修行(瞑想と学問)に励まれました。親鸞聖人もその中の一人でした。聖人は、比叡山延暦寺で20年間修行を積まれました。しかし、修行を積めば積むほど、悟りの境地に到達するどころか、《我執》に縛られる己の姿がますます鮮明になり、「このままでいいのか」と迷いが深まるばかりでした。

そうして29歳の時、聖人はついに意を決し延暦寺を出て法然聖人のもとを尋ね、そこで《浄土の教え》に出遇われたのでした。

親鸞聖人の苦悩

『仏説無量寿経』(ぶっせつむりょうじゅきょう)

《浄土の教え》が説かれている経典の中で親鸞聖人が最も重視されたのが『仏説無量寿経』というお経でした。このお経には、あらゆる者が阿弥陀仏(あみだぶつ)に、等しく「救われる」道筋が「物語」として描かれています。それは、「さとり」の仏教から 「救い」の仏教への転換の「物語」でした。

『仏説無量寿経』の主人公は阿弥陀仏といいます。阿弥陀仏は、仏になる前は法蔵(ほうぞう)という菩薩でした。法蔵菩薩は、世自在王仏(せじざいおうぶつ)という、自らが敬慕する仏さまのもとで、人々を「一切の区別なく平等に救いたいという願い(これを《本願》といいます)をおこし、その方法を考え抜かれたのでした。

その方法とは、私の名を呼ぶ者を、必ず、阿弥陀仏の国土である《浄土》に生まれさせる(これを「往生」といいます)というものでした。「名を呼ぶ」というのは、「南無阿弥陀仏」と声にすることです。これを《念仏》といいます。 念仏するものを浄土に往生させ、仏にするというのがこの「物語」の核心です。

ただ、親鸞聖人は、「往生」も仏になるのもすべて阿弥陀如来の本願のはたらきによるとされました。そして、今を生きるこの私が「南無阿弥陀仏」と念仏した時に「救い」が始まるとされたのでした。そうでなければ、生きている私たちに関係のない教えになってしまいます。

『仏説無量寿経』

「物語」と言葉

みなさんはこの「物語」をどう思われましたか。《浄土》ってどこにあるの、どんなところ? 「念仏」だけでいいの? そもそも「本願」って? といろいろ疑問がわいてきたのではないでしょうか。私もずっと思っていました。

でも今はこう考えています。もし、すぐに私が納得できたら、それは、その程度のものだろう。もし、私に喜びがわいてきたら、それは、私の煩悩が喜んでいるのだろう、と。

そもそも、「物語」や宗教的な言葉、もちろん、「お経」がそうですが、それらは言葉自体の意味を超えて、それがほんとうに指し示す宗教的真実ともいうべきことを伝えるための道具なのです。本来なら言葉で説明し尽くせないことを、選びに選んだ言葉で何とか表現しようとしているのです。それでも、「如(ごとし)」としか言いようがないのが宗教的真実なのです。

ですから、「わからない」からといって投げ出さないでほしいのです。いや、わからないからこそ聞き続けていきませんか。こうして、浄土真宗と出会ったのも何かのご縁なのですから。私はお寺に生まれたのがご縁で、紆余曲折を経ながら今も聞き続けています。

千数百年を経て、国を越えて「念仏」が人々の間で伝わってきたことは、ただごとではありません。その一点を取っても耳傾ける意味があります。

以下、私が聞いてきました一端をお伝えすることにします。

物語

本願(ほんがん)

菩薩や仏の願い《本願》と私たちの願いはどう違うのでしょうか。

私たちの願いはといえば、自分の身や心が心地よくなること、自分の欲望が満たされることでしょう。よほど広がったとしても、「私の」が付く範囲を超えることはありません。私の家族、私の町、私の国、・・・。

ということは、「一切の区別なく平等にすくう」という《本願》は、私たちの想像をはるかに超えているのでしょう。利己的な《我執》に縛られている私たちの思考で是非を判断してはいけないのではないでしょうか。私たちが簡単に得心がいくような《本願》であれば、かえってそれは、私たちの《我執》の枠内に止まっているといえるでしょう。

阿弥陀仏というのは、現代風に言い換えることが許されるならば、全人類的な本当の願いを体した象徴と言ってよいかもしれません。

《本願》

自力(じりき)と他力(たりき)

「阿弥陀仏にまかせるというが、結局は他人頼みではないか」という声もあるでしょう。

「まかせる」ことの前提は、《自力》の無効ということです。無効というのは役に立たないということです。《自力》への絶望であり断念といってよいでしょう。その上でのことですから、「まかせざるを得ない」という方が妥当かもしれません。それに「まかせる」というと自力の匂いが残ります。

つまり、他に道がないことに肯けた時、「名を呼べ、念仏せよ」という阿弥陀仏の言葉が心に響いてくるのではないでしょうか。

そうして、「南無阿弥陀仏」と称える時、阿弥陀仏は見逃すことなく、私を浄土へ生まれさせるというのです。浄土への道は私が作るのではありません。浄土の方から私に向かって差し向けられてくるのです。つまり、救いは全面的に阿弥陀仏によってなされるのです。だから、それは《他力》と呼ばれるのです。「他」は決して「他人」という意味ではありません。《我執》に縛られ煩悩だらけの私を救いたいという阿弥陀仏の本願のはたらきそのものを《他力》というのです。

《自力》と《他力》

浄土(じょうど)-広大無辺際(こうだいむへんざい)

「物語」の中で《浄土》は重要な「場所」として説かれています。そのためか、つい《浄土》はあるかないかと議論しがちです。どうして《浄土》が「場所」として説かれる必要があるのでしょうか。

私には到底計り知れませんが、次のように聞いたことがあります。

《《浄土》を形容する「広大」は広さを、「無辺際」は、境界(辺)やきわ(際)がないことを表している。それは、あらゆる衆生を受け容れても満員にはならないということ。つまり、漏れなく衆生をすくうという阿弥陀仏の精神を、私たちがイメージしやすいように「場所」として表現されたのではないかと。

《浄土》-広大無辺際(こうだいむへんざい)

浄土から穢土(えど)へ

『仏説無量寿経』には次のような願いも説かれています。

浄土に生まれても、迷い苦しむ衆生の元に還(かえ)ろうとするものは、仏になる仲間から除外すると。

普通なら、さらに上り詰めてめでたく仏になるところを敢えてそうせず、煩悩と罪悪に満ちた現実世界である《穢土》に還って、苦しむ衆生を救おうする者は、そうしてもよいというのです。

《浄土》は、仏に会うということは、そこに生まれた者をそのように感化するはたらきがあるということでしょう。

親鸞聖人はここに注目され、救われる者が救う側に転じていく、これこそが「救い」の完成であるとされました。しかも、浄土に往くも、浄土から還るのも、すべて阿弥陀仏の本願のはたらき、すなわち「他力」によると受けとめられたのでした。

《浄土》から《穢土》へ

聞く念仏、称える念仏

阿弥陀仏の名前を呼ぶこと、それが《念仏》であり《南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)》と声に出すことです。だから称名念仏(しょうみょうねんぶつ)といいます。「称」は「となえる」という意味です。

でも、なぜ、称名念仏なのでしょうか。

称名念仏は、阿弥陀仏に救われることが決まったことへの感謝の思いの中で、自ずと声になってあらわれ出るものとされています。しかし、私についていえば残念ながらそのような気持ちが湧いてきません。それが私の悩みの種でした。

しかし、ある時思いました。私たちの心はコロコロと変わるものなのに、感謝の思いという不確かな心持ちを阿弥陀さまは求められるのだろうかと。そもそも、私のような衆生がいることは、阿弥陀さまはとっくにお見通しのはずではないかとも。

だから、己の心持ちは問題にせず、「南無阿弥陀仏」とただ念仏せよ、声に出して称えよと親鸞聖人は勧められるのだと。

ところで、私が《念仏》を称えるのは、必ず、誰れかの《念仏》を聞いたからです。親か祖父母か誰だったでしょう。それを遡っていけば、ついには『仏説無量寿経』の阿弥陀仏の《本願》に行き着きます。そこから千数百年、「聞く念仏」と「称える念仏」が途絶えることなく繰り返されて、私に伝わったのです。これはすごいことと思いませんか。

声となった念仏は私が称えていますが、「人々を一切の区別なく平等に救うという本願」そのものでもあります。だから、称える私の心持ちがどうあろうと《念仏》そのものの尊さは微動だにしないのです。

《念仏》 《念仏》

信心(しんじん)-つながる-

「信心」は一般には「疑わずに信じる心」と言われています。でも、宗教に何かを求めた経験のある方は悩まれたかもしれません。疑いの心が消えなかったり、疑いを心の奥に仕舞い込んでいたり、信じていると思い込もうとしたり。

浄土真宗の《信心》は、「信」は決して変わらない阿弥陀仏のまことのこころ、「心」はコロコロ変わる私の心、この二つが《念仏》称えた時につながること、これが《信心》だと思います。阿弥陀仏の本願が成就することでもあります。ですから、《信心》は、信じるかどうかという私の問題ではないのです。
私の側に何かあるとすれば、この「物語」を信頼するかどうかの一点ではないかと思います。私はやっと信頼できるようになりました。

疑いの心は煩悩です。煩悩を持ったまま救われるのが浄土真宗なのですから、それらを無理に打ち消すことなく、途切れ途切れでも、ただ南無阿弥陀仏と念仏する、それなら、ちょっと安心できませんか。

《信心(しんじん)》-つながる-

「聴聞(ちょうもん)」と「溝(みぞ)」

ここまでお読みいただきありがとうございました。私の受けとめも含めて書きましたので、表題には「浄土のおしえ」と平仮名で「おしえ」としました。

浄土真宗は、教えが「物語」として語られます。言葉もそれぞれ深い含蓄がありますから、すんなりとは納得できないかもしれません。初めて浄土真宗に触れられた方には難しかったかもしれません。すでに聞かれている方であれば、教えと、教えに頷けない自分との間に「溝(みぞ)」を感じられたかもしれません。

納得できなかったり、「溝」を感じることは、私は、大事なことだと思っています。 なぜなら、私たちがそれぞれ固有の「生」を生きている証(あかし)だからです。ですから、「溝」は「溝」のままでよいと思います。「教え」を覚え込み、自分を「教え」に合わせる方がよほど危険です。自分が自分でなくなってしまいますから。

ただ、「溝」を「溝」のままにしておくのは心の収まりが悪いものです。その解決策は仏教の話を聞くことだと思います。これを浄土真宗では「聴聞」といいます。「聴聞」は、「教え」と私をつなぐ架け橋なのです。お寺は架け橋、「聴聞」の場です。

永順寺に限りません。お近くのお寺や別院、あるいは本山に足をお運びいただき、直接に「聴聞」していただきたいものです。最近は、YouTubeなどインターネットを通して、自宅にいながら「聴聞」もできます。架け橋は皆さんの近くにたくさんあります。  このことお願いして結びとさせていただきます。

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