[歴史]親鸞聖人の生涯〔前史4〕
「親鸞聖人の生涯」と銘打ちながら、なかなか親鸞聖人が登場しませんが、今しばらくお待ち下さい。いわば「前史」を少し詳しくお話した方が、親鸞聖人の革新性を一層理解しやすいと思っています。革新性といいましたが、本来の仏教に近づけたといった方がよいかもしれません。それは鎌倉時代に活動された他の祖師方にもいえるかもしれませんが、ここでは聖人に限定してお話することになります。
さて、前回は、仏教の伝来から奈良時代の国家仏教の成立までお話をしました(前半)。当時の仏教は、宗教という側面と先進文化の両面を持っていました。宗教面では、個の心の救済が目的ではなく、豪族・貴族・天皇家のための除災招福、病気平癒や延命、つまり、*現世利益の祈願を担ったのでした。
*現世利益(げんぜりやく)
生きている今、仏・菩薩 から受ける 利益のこと。息災延命、 除災招福、病気治癒などをさす。浄土真宗ではこれらを祈願すること はしない。
奈良時代になると、天皇制国家の安寧を祈る国家レベルの現世利益の実現が期待されました。これを鎮護国家思想といいます。そのために聖武天皇は「国分寺創建の詔」を発し、全国に国分寺・国分尼寺を建立しようとしたのでした。
このようにして国家の安寧と天皇貴族のための現世利益の実現が仏教に期待されたのでした。その集大成が今回お話する東大寺大仏の造営でした。
◇「毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)造営の詔」
「東大寺の大仏」と私たちは呼んでいますが、正式名称は「毘廬遮那仏」といいます。これはインドのサンスクリット語の「ヴァイローチャナ」の音を取って漢字に当てた音写語です。どことなくわかりますね。漢字の意味とは関係がありません。意味から訳すと(意訳)「大日如来」です。『華厳経(けごんきょう)』や密教系の『大日経(だいにちきょう)』『金剛頂経(こんごうちょうきょう)』というお経に説かれている仏さまです。
「ヴァイローチャナ」の元の意味は、「太陽」ですが、太陽そのものを超えて、何にもさえぎられずあらゆるものに届く仏の智慧の光を象徴しています。それだけではなく、大日如来は、過去現在未来を通じて永遠であり、全宇宙そのものだとされ、さらに、あらゆるいのちの根源であり、山川草木もふくめて一切の衆生はその一部だと説かれます。
聖武天皇は、このような毘廬遮那仏の力で国家の安寧を図ろうとしたのでした。そこには、中国の影響もありました。当時、中国史上唯一の女帝則天武后が独自の王朝をたて、国家の安寧を願って、龍門に毘盧遮那仏を造営しています。日本からの遣唐使もここを訪れています。
こうして天平十五年(七四三)聖武天皇は紫香楽宮(現在の信楽)で「毘盧遮那大仏造営の詔」を発し甲賀寺(廃寺)で造営を始めました。その詔を紹介します。
・・・・私はこの国を治める者として、三宝(仏・法・僧)の威光とその力を頼りとし、そうすることによって天地ともに安泰となるよう願っています。そのために今、万代までの幸せを願う事業を起こして、草、木、動物など、この世の生きとし生けるもの全てが繁栄することを心より望んでいます。・・・・・そしてこの事業が成功したならば、私も国中の人々も、ともに同じく仏の功徳を受け、ともに仏の悟りの境地へと至ることができるでしょう。・・・・
現代語訳は「九條正博|歴史学」 https://note.com/m_9johより
こうして天皇制国家の安寧を護るための仏教という位置づけが完成したのでした。寺院で働く僧尼は朝廷が任命権をもつ「官僧」であり、国家に奉仕するいわば国家公務員でした。
造営の詔が発布された二年後、都は紫香楽宮(しがらきのみや)から再び平城京に遷りました。それに伴い大仏の造営も奈良の金鐘寺(東大寺の前身)に移り、七四九年に開眼会が行われたのでした。
◇南都六宗~「学問仏教」~
奈良仏教にはもう一つの特徴がありました。それは、「学問仏教」という側面です。インド・中国で経典の研究がおこなわれ、優れた書物が著されました。これを「論」といい、その「論」についての研究も行われました。これを「釈」といい、あわせて「論釈」といいます。それらが日本にも輸入され、グループに分かれて研究されていました。そのグループが「宗」(衆)と呼ばれました。主な宗が六つありましたので、南都六宗といいます。「南都」とは、奈良の都を指します。
六宗とは三論(さんろん)宗、法相(ほっそう)宗、華厳(けごん)宗、倶舎(くしゃ)宗、成実(じょうじつ)宗、律(りっ)宗の六宗です。
すべての研究グループがそろっていたのは東大寺でした。元興寺、法隆寺、大安寺、興福寺などでもそれぞれ複数の研究グループがあり、僧侶はそこで仏教を学んだのでした。
以上述べてきたことをまとめると、当時の仏教は、豪族や天皇の現世利益の実現と国家の安寧を祈願する一方で、仏教教理の研究という学問仏教の両面性をもっていました。しかし、庶民は、救済の対象から外れていました。
ただ、例外的ですが、「僧尼令」に反して民衆を教化したばかりか、橋をかけ、灌漑治水などの社会救済事業も行った行基(ぎょうき)という僧がいたことは記憶にとどめておきたいと思います。
次号は、平安時代の仏教のお話です。最澄の天台宗と空海の密教を中心にお話をします。