[歴史]親鸞聖人の生涯〔前史5〕
(4)最澄と天台宗
さて平安時代の仏教の話に入りましょう。ここでは、最澄と天台宗についてお話をします。密教を日本に本格的にもたらし広めた弘法大師空海にも触れねばならないのですが、他に譲らせて頂きます。早く「親鸞聖人の生涯」に入るためということで、ご容赦下さい。
◆最澄の誕生
最澄は767年大津坂本に生まれました。京阪坂本駅の向かいにある生源寺が生誕の地とされ境内に産湯の井戸があります。父親は三津首百枝(みつのおびとももえ)といい、渡来系の子孫といわれています。11歳の時、近江の国分寺で得度した後、延暦4年(785)東大寺戒壇院で受戒して正式の官僧となりました。しかし、南都には止まらず朝廷の許可を得て比叡山にこもり、草庵を結んで『妙法蓮華経(法華経)』を中心に学問と修行を重ねたのでした。草庵は後に一乗止観院と呼ばれ、現在の根本中堂の場所にありました。
平安京遷都の3年後、延暦16(797)年、31歳の時、最澄は命を受けて、宮中の祈祷僧の役職である内供奉(ないぐぶ)に任命され桓武天皇の身近に仕えたのでした。
当時、怨霊(おんりょう)思想が広く信じられ、それが天災や病など祟りを引き起こすと考えられていて、それを押さえることが仏教に期待されました。また、山岳修行によって強い呪力を得られるとも考えられていましたので、最澄が桓武天皇に期待されたのも、そういう側面が強かったのでしょう。後に空海が日本にもたらした密教が重用されるのもそれが大きな理由でした。
しかし、最澄がめざしたのは、すべての衆生を等しく救う大乗仏教の確立でした。それを『法華経』の思想を根本とする天台学によって成し遂げようと考えたのでした。そのために唐(当時の中国)に渡って本場の天台学を学びたいと朝廷に訴え、還学生(短期の留学生)として派遣されることになったのでした。
こうして延暦23年(804)、最澄は38歳の時、海を渡ったのでした。この遣唐使の船団の中には留学生(長期の派遣)として派遣された空海もいました。
◆天台法華宗の開創
唐に渡った最澄ですが、その地では天台宗の開祖智顗(ちぎ)が建立した天台山国清寺(こくせいじ)を訪れた後、龍興寺に滞在して当時の代表的な天台学者道邃(どうすい)から天台学を学び円頓戒(えんとんかい/天台宗の受戒)を受けました。他にも、禅を学び、帰国間際には密教の伝授も受け、延暦24年(805)帰国の途についたのでした。
翌、延暦25年には、最澄の門弟から出家得度者(年分度者)2名出すことが朝廷から認められ、ここに天台法華宗が正式に開創したのでした。ただ、2名の内1名は天台をもう1名は密教を修する者とされました。密教に対する桓武天皇の期待が見て取れます。最澄42歳でした。

