[暮らしの中の浄土真宗1]
このコーナーでは、仏教・浄土真宗の教え・見方を日常の暮らしに即してご紹介できればと思っています。今回は「縁起」について。
「縁起」というのは、何かの出来事(これが「果」です)が起こった時、そこには必ず原因(「因」と「縁」)があるというものの見方です。「因」は根本原因、「縁」は間接的な原因です。たとえば、花が咲いた時、花の種が「因」で、水や太陽の光などが「縁」です。種(因)だけでは花(果)は咲きませんが、種がなければ、どれほど条件が整っていても(縁)花は咲きません。
その条件(縁)も、太陽や水といった花が咲くのを後押しする縁だけではなく、開花を邪魔する条件、たとえば、種が踏み潰されなかったという条件も必要です。前者を「与力の縁」、後者を「不障の縁」といいます。
私のことを例に、この二つの「縁」についてお話します。
私の曽祖父は七番目の男子として生まれ成長して住職になりました。先に生まれた六人が皆亡くなったからです。これを知った時、よく「育ってくれた」と思いました。これが私が生まれるための「与力の縁」です。ちなみに「因」は両親が結婚したことです。
「因」はさておき、しばらくして気が付いたのは、六人の兄弟の一人でも成長して住職になっていたら、私は生まれていなかったことです。つまり、六人が亡くなったことが私が生まれる「不障の縁」になったということです。これはショックでした。六人の子ども(全員十歳未満)を次々と亡くした親の悲しみはいかばかりであったか。私のいのちには、喪失の悲しみと七番目の子の成長の喜びはもとよりですが、さかのぼれば、無数の人々の喜怒哀楽が幾層にも沈殿しているのだと思いました。生きるとは、そういういのちを生きることなのだと思いました。
これは誰のいのちについてもいえることです。「先祖」ということの本当の意味は、こういうことなのではないでしょうか。
