あやまち
あやまちは 人間をきめない
あやまちのあとが人間をきめる
あやまちの重さを自分の肩に背負うか
あやまちからのがれて
次のあやまちをおかすか
ブッシュ孝子
これはブッシュ孝子さんが書かれた「あやまち」という詩の一部です。
「あやまちの重さを自分の肩に背負う」というのは、責任や罪を逃れたい保身の心を抑え、自分のあやまちを認め、そのように表明することだと思います。
しかし、あやまちによって生じる事態の重大さ、信頼や信用の失墜、立場や人間関係の崩壊、関係者への罪の波及、家族への迷惑などを考えると、心が震えて「肩に背負う」気持ちが萎えてしまう気がします。心は、いかにしてそのような事態から逃げられるか、あやまちを無かったことにできないか、ということで占められてしまう、これが私たちに起こる普通の反応ではないでしょうか。
実際には、社会的に重大な事態の当事者になることは少ないでしょう。でも、職場や友達関係、夫婦・家族間で、小さなあやまちを犯すことはよくあります。その時、「あやまちの重さを自分の肩に背負」っているかと言えばそうでもありません。ほんの少し話をオーバーにしたり、中身を少しカットしたり、小さな嘘を混ぜたり、自分を飾ったりして、巧みに自分のあやまちを小さく見せようとしている私があります。
いつ頃かそんな自分に気づきました。以来、できるだけ嘘や飾りをそぎ落として話すように心がけていますが容易には落とせません。これが仏教のいう我執でしょう。
そんな私にとって、ブッシュ孝子さんの言葉は鏡にすべき厳しい言葉ですが、あやまちの重さを背負いきれない己に向き合うことも、それはそれで厳しいことです。真宗への道はそこから開けるように思います。