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[歴史]親鸞聖人の生涯③

 前回は、奈良時代以前の仏教についてお話しました。今回は奈良時代の仏教についてです。(前半)
(3)国家仏教へ~奈良時代の仏教~
 本来の仏教理解を示した聖徳太子は例外的な存在でした。天皇を初め豪族たちが仏教に求めたのは、自らの一族の病気の平癒や災難の除去など現世利益でした。
 8世紀、奈良時代に入ると、これまで天皇家・豪族ら自身の現世利益の追究であったのが国家的な規模に拡大され、天皇制国家の安寧を祈るための仏教、国家仏教へと変化していきました。

◇『僧尼令(そうにれい)』~僧侶の管理統制~
 大宝元年(701)、日本で初めて行政法・民法・刑法がそろった『大宝律令』が発布されました。その中に、僧侶の管理統制を目的とした『僧尼令』がありました。
 『僧尼令』によると、僧尼になる数は毎年朝廷によって定められ大寺に割り当てられていました。これを年分度者といいます。僧侶になるための儀式を「得度(とくど)」といいますが、その数が寺院の側ではなく朝廷によって定められたのです。
 当時の僧侶は「官僧」と呼ばれ、一般の法ではなく、『僧尼令』によって管理統制されました。悟りを得たと嘘をついたり、占いで偽りを説いたり、寺院の外で庶民へ教化活動したりといったことは重罪となり、最も重い「還俗刑(げんぞくけい)」が課せられました。「官僧」身分の剥奪です。官僧は課役の免除などの特典や身分の保証がありましたから、還俗させられるのが一番重い罰となったのです。
 『僧尼令』による僧侶の管理統制の制度は奈良・平安時代を通じて基本的な枠組みとなりました。僧侶は天皇国家に奉仕することが当たり前となったのでした。しかも、それは次項に述べるように、経典に根拠がありましたから聖俗両面から仏教と僧侶のあり方が規定されたのでした。
 これとは逆に、仏教が律令の刑法に影響を与えたこともありました。平安時代に入ってからのことですが、桓武天皇の子である嵯峨天皇は、盗みを犯した罪人への死刑を停止しました。その結果、死刑に該当する刑罰は遠流になりました。死刑停止は、その後、保元平治の乱の処罰で復活するまで、約350年間続きました。
 嵯峨天皇が死刑を停止した理由には諸説ありますが、最も有力とされるのが仏教の不殺生戒だといわれています。
◇国家仏教の成立~鎮護国家(ちんごこっか)思想
 述べてきたように、それまでの仏教が天皇家や豪族の現世利益の私的な祈願に重点があったのに対して、奈良時代になると、それが国家的な規模に拡大され、天皇制国家の安寧を祈るための仏教、国家仏教へと変容していったのでした。仏教は国家を護るための役割をもつという考え方を鎮護国家思想といいます。
 このことは聖武天皇(在位724~749年)の発した「国分寺創建の詔」(741)と「毘盧舎那仏造立(びるしゃなぶつぞうりゅう)の詔」(743)に端的に表れています。発布されたきっかけは、朝鮮半島の新羅の侵攻の懸念や、疫病(天然痘か)が全国的流行という危機的状況がありました。
◇「国分寺創建の詔」~護国のお経『金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)』~
 「国分寺創建の詔」は、全国に国分寺・国分尼寺を建てて、塔に『金光明最勝王経』を安置し読誦することを求めました。『金光明最勝王経』は、この経を敬って読誦するところでは四天王をはじめとする諸天善神が国を護ってくれるという護国の思想を説く経典です。国分寺の正式名称である「金光明四天王護国之寺」はこの経典に由来します。
 国分尼寺は正式名称を「法華滅罪(ほっけめつざい)の寺」といい、
『法華経(妙法蓮華経)』を安置、読誦することが求められました。『法華経』は、鎮護国家を祈る経典でもあり、また、当時成仏しがたいと見なされていた悪人や女人の成仏を明らかにしている経典とされていたからです。後で触れますが、日本天台宗を開いた最澄もこの『法華経』を根本聖典としました。
 ただ、この詔では、内憂外患から国と民を護るとしつつ、後半では、歴代天皇と藤原氏らの忠臣の霊の救いと、天皇家・藤原家・橘家などの安穏、朝廷に敵対するものの絶滅という願いも含まれていました。そこが2年後に発願される「毘盧舎那仏造立の詔」との相違点でした。どう違ったのでしょうか。
 次回はそこからお話しします。