[歴史]親鸞聖人の生涯②
2・日本の仏教の変遷~聖人以前~
前回は、親鸞誕生の時代背景を政治・社会の視点から概観し、公家社会から武家社会への転換期であったことがわかりました。今回は、仏教の伝来とそれ以降の変遷に焦点を当てて考えてみます。
(1)仏教の伝来~新たな「神」との出会い~
日本への仏教公伝は、6世紀の飛鳥時代、朝鮮半島の百済(くだら)から釈迦如来金銅像と経典などが欽明(きんめい)天皇に献上されたことに始まるとされています。自然現象の背後に神の存在をみていた人々にとって、黄金に輝くその仏像は、初めて見る外来の「神」でした。
当時、疫病や天変地異は神の祟りと考えられていましたから、従来の神々と新しい神のどちらを祀るかは、一大政治問題でした。崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏はそれを巡って対立しましたが、最終的には朝鮮半島の情勢に詳しく渡来人とのつながりの深い蘇我氏が勝利を収めました。
仏教の伝来は、当時の日本にとって新たな宗教の移入に止まるものではなく、明治維新の文明開化に匹敵する先進文化との出会いでした。
『日本書紀』によると、百済の聖明王は大和朝廷に僧を献上して三~六年ごとに交替させたそうですが、そこには、学問僧の他に、呪禁師(じゅごんし)、造仏工、造寺工、画工、瓦博士なども含まれていました。呪禁師というのは、呪文を唱えて悪気をはらい,病気や災難を除去する一種の占い師のことですが、当時の「先進科学」でした。これらは古代社会においては政治と直結するものでした。
(2)仏教の浸透
◇豪族から天皇・国家へ
最初、仏教を積極的に取り入れたのは蘇我氏を筆頭とする豪族でしたが、飛鳥時代の7世紀中頃にもなると、天皇も仏教の導入に積極的になっていきました。その傾向は645年の大化改新以後はますます強まり、天智天皇、天武天皇をはじめ歴代の天皇、新たに宮廷に進出した藤原氏(藤原鎌足の子孫)も寺院を建立し、一族の安寧を僧尼に祈らせました。
◇現世利益(げんぜりやく)
天智天皇は、大津京近くの崇福寺(すうふくじ)(668年)など数か寺を建立しました。弟の天武天皇は、持統皇后の病気平癒を願って薬師寺を建立(680年発願)しました。こうして、仏教は天皇中心の律令国家の建設と歩調を合わせて政治・文化の両面において浸透していきましたが、病気平癒や除災招福などの現世利益を祈る仏教に変わりはありませんでした。寺院は、天皇や貴族が自らの安寧を求めて建立されたのであり、庶民の救済は目的ではありませんでした。
仏教は本来人間の内面を問うていく宗教ですが、そのような仏教理解に至るには平安時代の最澄、より本格的には法然、親鸞ら鎌倉仏教の祖師の出現を待たねばなりませんでした。ただ、推古天皇の治世に政治に深く関与し、天皇中心の中央集権国家の形成に寄与した厩戸皇子(聖徳太子)は、仏教を内面的にも理解した数少ない人物でした。
◇厩戸皇子(うまやどのおうじ)(聖徳太子)と親鸞聖人
「厩戸」というのは、母親(穴穂部間人皇女)が散歩中に厩(うまや)の戸に当たった時に生まれたことからそう呼ばれるそうですが、ここでは聖徳太子という名前を使います。
聖徳太子について触れるのは、親鸞聖人が太子を大変敬慕されていたからです。聖人が比叡山延暦寺を出て法然聖人の元に行く決心を促したのは、夢に現れた救世観音菩薩(聖徳太子の本地(本来の姿)とされる)の示唆によると言われています。また、聖人は11首からなる『皇太子聖徳奉讃』を作っておられますが、その中で、
和国の教主聖徳皇 広大恩徳謝しがたし・・・・
〈訳〉日本の釈尊ともいうべき聖徳太子 その広大なご恩と徳は感謝してもし尽くせない
とよまれています。仏教で「教主」は、釈尊を指しますから、どれほど、尊敬されたかがわかります。いったい聖徳太子とはどのような人物だったのでしょうか。
◇聖徳太子登場の背景
聖徳太子は用明天皇を父とし、穴穂部間人皇女(あなほべはしひとこうじょ)を母として西暦574年に生まれます。用明天皇の祖父は蘇我稲目(そがいなめ)で当時強い権力を持っていました。太子14歳の時、父用明天皇が即位2年でなくなり、同年、排仏派の物部守屋が蘇我氏と争い戦死します。19歳の時、崇峻天皇(すしゅん)(太子の叔父)が、蘇我馬子(崇峻の叔父)にそそのかされた東漢 駒(やまとのあや の こま)によって暗殺されます。その東漢駒は馬子によって一族皆殺しにあいます。かわって即位したのは崇峻天皇と異母姉の推古天皇でした。その摂政(今で言うところの)についたのが、崇峻・推古の甥であった聖徳太子でした。
◇聖徳太子の仏教
太子が摂政となって(593年)最初の政治活動が「仏教興隆の詔」の宣言であったのは、このような経験による部分もあったでしょう。11年後に発布される『十七条憲法』(603年)が「和を以て貴しとなす」で始まるのも太子の強い思いが感じられます。
聖徳太子の仏教に関わる業績として、四天王寺(593年)や法隆寺(607年)の建立もさることながら、仏教の内的理解という点においては『十七条憲法』の制定や『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』が注目されます。
・『十七条憲法』
第二条で次のように述べられています。*部分口語訳
「篤く三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧なり・・・・いきとし生きるものは、この教えに従うべきであり、世界の究極の法である。そもそも、人間は最初から悪人であるものは少ない。三宝に帰せば悪を直すことができる」とし、すべての国が仏教を究極の拠り処とすべきだといわれたのです。
・『三経義疏』
これは『法華経(妙法蓮華経)』『勝鬘経(しょうまんきょう)』『維摩経(ゆいまきょう)』という3つのお経の注釈書のことです。『勝鬘経義疏』では、「人は、もともと聖人・愚者の別なくすべて平等の仏子であり、人の行うすべての善(道徳的な善も含めて)は、成仏につながる」(以上『日本宗教史』による)とされています。そこには一切の衆生を救う大乗仏教の精神が見て取れます。太子が語ったとされる次の言葉も仏教の精神がはっきりとうかがえます。
世間は虚仮(こけ)なり ただ仏のみ真(まこと)なり 世間虚仮 唯仏是真
〈訳〉この世はうそ偽りに満ちて空しく、ただ、仏とその教えのみがまことである。
太子の人物像をかいつまんで見てみましたが、これだけでも、仏教の呪術的、現世利益的な受けとめとは異なり、本来の仏教理解をされていたことがわかります。これらが親鸞聖人が聖徳太子を敬慕された理由といえるでしょう。
現在、浄土真宗の寺院の右の余間に聖徳太子の掛け軸を欠けるのは、そういう背景があるからなのです。
今回はここまでにします。次回は、奈良時代に入ります。仏教が天皇や豪族の個人的な現世利益の祈りから国家の安泰を祈る国家仏教へと変わっていく様子をお話しします。